今年の年末は
どうも年末という感じがしません^^;
しかし
一年の振り返りをしていると・・
3月に念願のラマナアシュラムに行ったことが
鮮明に思い出されます
これは人生で2度目のインドでした
1度目は13年前(28歳のとき)に
Oshoアシュラムへ
そのときは2ヶ月滞在して
work as meditationというプログラムに参加しました
簡単にいうと
働きながら”今ここ”にいようというものです
デスクワークをしたり
売店の店員をしたり
瞑想のファシリテーターをしたり
瞑想の音楽の生演奏のために
バンドでベースを弾いたり
いろんな日常生活の機会を
『今ここ』にいてcelebrate(祝福)しよう♪
という2ヶ月でした
Oshoアシュラムは音楽がいたるところにあって
ダンスが日常に溶け込んでいました
しかし
今回のラマナアシュラムは
それとは全く異なる場所でした

ラマナアシュラムでの基調は
静寂でした
音楽もなくダンスもありません
若い頃は
ラマナ・マハリシに惹かれることは全くありませんでした
かすりもしませんでした
それがまさか彼のアシュラムに行く日がくるとは
人生は不思議なものです
30歳を過ぎてから
彼の写真の目を見ていると・・
その溢れる愛のエネルギーに
涙が溢れることがしばしば起きるようになったのです
かつてラマナ=マハリシの著作を読んだとき
「私は誰か?」という探究がメインになっており
愛というエッセンスを感じることはありませんでした
しかし
写真から感じる恩寵があまりに強烈なので
いろんな文献やブログなどを読むようになり・・
いかに彼が愛そのものであったかがわかってきました
彼は実際のところ
帰依者の気質に合わせた教え(指導)をとっていて
「万人に当てはまる霊的指導はありえない」と言い切っています
彼の指導の本質は沈黙の中にあって
それがどんな作用を個人個人に及ぼすかは
実に秘められていたのです

ラマナの瞳や沈黙には
活力に満ちた平和と
愛が染み渡っています
それは(ラマナの言葉でいうところの)
”真我”への招待状です
光平にとっては”I AM”という言葉の方がしっくりくるのですが
こういったグルやマスターたちは
外側からあなたを
ハートの奥へと押し込んでくれます
今ここにある
人間性を越えた私=I AM
それは静寂であり
かといって虚無的なものではなく
まさに愛そのものであり
光であり 命
この本当の私を自覚できるようにと
ラマナをはじめとするマスターたちは
常に目に見えないレベルにおいてサポートしてくれています
私たちがするべきことは
ただそこにゆだね
明け渡すこと

ラマナアシュラムで
ラマナの写真を前にご飯を食べていると・・
どういうわけか
涙が溢れてきました
「よく来たね」と
歓迎されているかのようでした
オールドホールで座っていると
帰依者たちの恩寵を求める姿に胸を打たれました
歳をとったおばあさんが
一生懸命
ラマナの肖像画の足に触れようと手を伸ばすのです
(肖像画の前には柵があって
絵には普通触れられないようになっています)
聖者の足に触れること
(またはその周辺の土に触れること)は
インドではある種の最上級の感謝の現れです
日本人的な感覚からすると
柵の中の絵に手を伸ばすことはしてはならないことに思えるのですが
しかし
そのひたむきなエネルギーが
どういうわかか胸を打つものがあり涙が自然と湧き出るのでした
挙げるとキリがありませんが
そういった恩寵を感じることが何度もありました
こういう場所に訪れることは
場所が呼んでくれるとよく言いますが
本当にそうだったのだろうと思います
今や日本に帰り
この日常において
心の平和を人生に染み渡らせる時期なのだと
私は思います

ラマナ=マハリシ曰く
Peace is not in the hall.
It is in the repose of the Self.
It can be obtained anywhere.
平和はホールの中にあるのではない。
それは真我(I AM)の静けさの中にある。
それはどこでも得られるのだ。
師の臨在のもと得られた体験は
それが自分自身の血肉になるように
やはり修練が必要です
レナードの言うところのgentle remembering
(穏やかに覚えていること)
今ここから逸れたとき
また戻ってくること
無意識の闇が出てきて
I AMから引き離されたとき
また意識的に戻ってくること
その地道な繰り返し・・
そしてそれさえも
恩寵によって促され
意識的な努力が
やがて自然な状態へとさらに定着していく・・
人生はそのような旅なのだと
私は感じています
とりとめなく書いてきましたが
これを読む誰かの何か参考になったら幸いです
あなたの魂の旅路に
祝福をこめて
光平